デジタル・メビウス 1

プロローグ

仮想の影

夜の帳が世界を覆う中、巨大なモニタールームの中心には一人の男が佇んでいた。無数のスクリーンが壁一面に張り巡らされ、それぞれが異なる情報を絶え間なく映し出している。データの海に溺れるような視覚的ノイズの中で、彼の瞳は冷静かつ鋭く光り、ディープフェイクAI「ネメシス」の進化を監視していた。

「プロジェクトは順調に進行中。次のターゲットエリアに移行します。」

背後から現れた黒衣の男が、レイブンに報告する。彼の声には抑えきれない興奮が滲んでいた。レイブンは満足げに微笑みながら、手元のタブレットを操作し、新たなディープフェイク映像を瞬時に生成していた。

「よろしい。全世界の混乱を最大化させ、我々の影響力を確立するためのステップに移ろう。」

その言葉に、部屋全体が一瞬静まり返ったかと思うと、再び無数のスクリーンが情報の洪水を巻き起こした。彼らの手によって、各地で計画的に混乱が引き起こされていた。大統領の緊急演説が突然敵対国への宣戦布告に変わり、市民は恐怖と混乱に陥った。著名企業のCEOが機密情報を暴露する映像がSNS上で拡散し、株価は暴落。人気アイドルのスキャンダル映像が瞬く間に拡散し、彼女は芸能界から姿を消した。

これら全てが、生成対向ネットワーク(GAN)を基盤としたディープフェイクAI「ネメシス」によるものだった。ネメシスは、リアルタイムで偽造映像や音声を生成し、情報の真偽を曖昧にすることで、社会の信頼基盤を揺るがせる計画の一環として設計された。

「オブリビオン」の名の下に結成されたこの謎の組織は、情報操作を通じて世界の秩序を再構築しようとしていた。彼らの目的は明確だ。混乱の中で人々の信頼を失わせ、情報を掌握することで新たな世界秩序を築くこと。しかし、その具体的な手法や最終目標は、レイブン自身にも完全には明らかにされていなかった。

情報の信憑性が揺らぐ中、信頼していたメディアや公的機関すらも疑念の目を向けられ、人々は真実を見極めることが困難になっていた。社会は疑心暗鬼に陥り、秩序が崩壊し始めていた。そんな混沌の背後で、オブリビオンは静かに影響力を拡大し続けていた。

そして、この陰謀の渦中に、やがて一人の若者がその暗躍を知ることになる。彼の名は谷 智栄(たに ともひろ)。AIとプログラミングに深い興味を持ち、将来はエンジニアとして社会に貢献することを夢見る17歳の高校生。しかし、彼の日常が一変するのは、この物語が始まる瞬間であった。


第1章

新たな流行

朝日が差し込む静かな部屋で、谷 智栄(たに ともひろ)は目を覚ました。17歳の高校生であり、AIやプログラミングに強い興味を持つ彼は、未来の技術に心を躍らせながら一日を始める準備をしていた。彼の部屋は、最新のガジェットや参考書で溢れ、壁には彼が作成したプログラムのフロー図やテクノロジー関連のポスターが貼られていた。

「今日は何を作ろうかな…」と、彼はつぶやきながらノートパソコンを開いた。AI関連のプロジェクトに取り組むことが彼の日課であり、その情熱は周囲からも一目置かれるほどだった。彼の部屋には、彼自身が開発したAIアシスタントのプロトタイプが設置されており、その動作はすでに高度なものであった。

その日の朝食後、智栄はいつもの通学路を歩きながらニュースアプリをチェックした。最近、フェイクニュースやディープフェイクによる情報操作が社会問題化している中、彼はその技術の進歩とリスクについて考えていた。

「本当に情報の信憑性が保たれるのか…」と、彼は眉をひそめた。その時、彼のスマートフォンに通知が届いた。画面には、「Loop」という新しいSNSアプリのアイコンが表示されていた。

「Loop、か…」と、智栄は興味をそそられた。最近話題のこのアプリは、ユーザー同士の共感度を高める機能が特徴で、最新の機械学習アルゴリズムを搭載していることで注目を集めていた。彼は、技術的な視点からこのアプリに興味を持ち、詳しく調べることにした。

学校に着くと、教室内はいつもよりざわついていた。クラスメートたちが新しいアプリについて熱心に話し合っており、その中心には文田 百合愛(ふみた ゆりあ)がいた。ユリアは17歳で、SNS上では多くのフォロワーを持つインフルエンサーでもある。彼女の存在は、智栄にとっても大きな影響を与えていた。

「智栄、もう『Loop』始めた?」と、ユリアが笑顔で声をかけてきた。

「まだだけど、興味あるんだ。どんな機能があるの?」と、智栄は答えた。

「すごく面白いよ!共感度っていうのがあって、自分と似た趣味や興味を持つ人を自動で見つけてくれるの。しかも、AIがユーザーの行動パターンを解析して最適なコンテンツを提供してくれるんだって」ユリアは自信満々にスマートフォンを見せてくる。画面には洗練されたデザインのアプリが表示されていた。

「それは便利そうだな。でも、個人情報の取り扱いとか心配じゃない?」と、智栄は疑念を抱いた。最近、SNSからの情報漏洩事件が多発しているため、プライバシーの問題は彼にとって常に頭の痛い問題だった。

「大丈夫だって!セキュリティは最新技術が使われてるし、みんな使ってるんだから信頼していいと思うよ」と、ユリアは肩をすくめて答えた。その言葉に少し戸惑いながらも、智栄は興味を抑えきれずにスマートフォンを取り出し、「Loop」をダウンロードすることに決めた。

放課後、彼は自宅の自室で「Loop」の初期設定を進めた。画面に表示される質問に答え、プロフィールを作成していく過程で、彼のプログラミング知識が役立つ場面も多かった。

「名前、生年月日、興味のある分野…」智栄は慎重に入力を進めた。趣味の欄には「プログラミング」「AI技術」「読書」と記入し、プロフィール写真も適切なものを選んだ。

「プロフィール写真は…まあ、後でいいか」と、彼は自信なさげに呟いた。設定を完了すると、「ようこそ、智栄さん!」というメッセージが表示された。同時に、通知が立て続けに届いた。

「共感度95%以上のユーザーが見つかりました」 「あなたにおすすめのグループがあります」

智栄は興味を引かれ、表示されたユーザーリストを開いた。そこには、自分と同じ興味を持つ人々のプロフィールが並んでいた。その中に、見覚えのある名前を見つける。

佐藤 健太(さとう けんた)…まさか、あの健太?」

中学時代の同級生、佐藤 健太(さとう けんた)は飛び級で大学に進学した天才だった。彼はAI技術に詳しく、特に生成対向ネットワーク(GAN)において卓越した成果を上げていた。久しく連絡を取っていなかったが、共感度95%と表示されていることに、智栄は興味を持った。

「懐かしいな…」と、智栄は思わず呟いた。

智栄は試しに健太にフォローリクエストを送ってみた。すると、数分後に健太からの返信が届いた。

「佐藤 健太です。『Loop』を通じて繋がれたのは嬉しいですね。少し話せる時間ありますか?」

そのメッセージに、智栄は胸の奥で小さな違和感を覚えた。しかし、それが何なのかはまだわからなかった。彼は返信を送ることにした。

「もちろん。元気にしてる?」

「はい、元気です。智栄さんもお元気そうで何よりです。実は、『Loop』に関して気になる点がありまして…」

「気になる点?どういうこと?」

智栄は驚きを隠せなかった。

「詳細は直接お話ししたいのですが、よろしければ今週末にでも会いませんか?」

智栄は少し考えた後、返信を送った。

「いいですね。具体的な場所と時間を教えてください。」

数時間後、健太から再度メッセージが届いた。

「土曜日の午後2時に、駅前のカフェ『クローバー』でどうでしょうか?」

「了解です。楽しみにしてます。」

そのメッセージを見終えた智栄は、複雑な気持ちになった。健太がなぜ「Loop」に関して気になる点があるのか、そしてその背後に何が隠されているのか、彼自身もまだ理解できていなかった。

土曜日、駅前のカフェ『クローバー』に向かった智栄は、店内の落ち着いた雰囲気の中で健太を見つけた。健太は以前と変わらず冷静な表情をしていたが、その目にはどこか深刻さが宿っていた。

「やあ、智栄。久しぶりだね」

「久しぶり、健太。元気そうで何よりだよ」

二人は席に着き、軽く近況報告を交わした後、健太が真剣な表情で話し始めた。

「実は、『Loop』には表には出ていない機能があるんだ。AIがユーザーの行動パターンを分析し、特定の情報を選択的に提示することで、ユーザーの意識や行動に影響を与えている可能性が高いんだ」

智栄は驚きを隠せなかった。

「具体的にはどういうこと?」

「例えば、特定のニュースや情報が優先的に表示されることで、ユーザーの意見形成や購買行動、さらには政治的な選好まで誘導されているんだ。これを実現するために、『Loop』は生成対向ネットワーク(GAN)を用いたディープフェイク技術を活用している」

「それって…フェイクニュースの拡散とかじゃないの?」

「もちろん、フェイクニュースもその一部だ。しかし、それだけじゃない。AIがユーザーのデータを解析し、心理的な脆弱性を突いて情報を操作している。これにより、ユーザーは無意識のうちに特定の方向に導かれている可能性があるんだ」

智栄は深刻な面持ちで聞き入った。

「でも、どうしてそんなことをするんだ?」

「それが問題なんだ。『Loop』の背後には、オブリビオンという組織が関与している。彼らはディープフェイクAIを使って社会の情報を掌握し、人々の意識をコントロールすることで、新たな秩序を築こうとしているんだ」

「オブリビオン…聞いたことないけど、どうしてその組織が『Loop』を使うの?」

智栄はその名前に聞き覚えがなかった。

「闇の組織で、世界の情報を掌握しようとしているらしい。彼らの目的はまだ不明だけど、放っておけば世界は大変なことになる」

健太の言葉に、智栄は深刻さを感じた。

「わかった。僕にできることはある?」

「君のプログラミングの知識を貸してほしい。一人では限界があるから」

「もちろん協力するよ。でも、リスクは大きいんじゃない?」

「覚悟はできてる。君はどうだい?」

智栄は一瞬考えた。しかし、正義感の強い彼はすぐに答えた。

「僕も一緒にやるよ。世界が混乱するのは見過ごせない」

「ありがとう、智栄。心強いよ」

その時、店内のテレビがニュース速報を伝え始めた。

「緊急速報です。大手IT企業から大量の個人情報が流出したとの情報が入りました…」

二人は顔を見合わせた。

「これも…『Loop』の仕業かもしれない」と、健太がつぶやいた。

「急がないといけないね」と、智栄は強く頷いた。

「でも、僕たちだけで大丈夫かな?」

「もう一人、協力者がいる。君に紹介したい」

「誰?」

「文田 百合愛(ふみた ゆりあ)さんだ」

「えっ、美咲…じゃなくて、ユリア?」

「彼女はSNSで情報収集が得意だろう?彼女の協力が必要なんだ」

智栄は再び不安を感じた。しかし、正義感の強い彼は決断を下した。

「わかった。彼女にも話してみる」

「ありがとう。これでチームが揃う」

健太は少しだけ笑みを浮かべた。

「これから忙しくなるよ」

智栄は覚悟を決めた。こうして、彼らの戦いが始まった。