第10話 目覚めの朝

柔らかな朝日がカーテンの隙間から差し込み、真琴のまぶたを温かく照らした。鳥たちのさえずりが遠くから聞こえ、穏やかな朝の気配が部屋を満たしている。

真琴はゆっくりと目を開けた。見慣れた天井、窓辺の植物、机の上に置かれた絵の道具たち。すべてが元の場所にある。

「ここは……私の部屋?」

彼女は身体を起こし、周囲を見渡した。異世界での出来事がまるで夢だったかのように思える。しかし、その感覚はあまりにも鮮明で、ただの夢だとは思えなかった。

ふと、手元に重みを感じた。見ると、あの古い日記が彼女の手の中に握られている。革の表紙は少し擦り切れていて、ページの端は黄ばんでいる。

「これは……」

ページをめくると、見覚えのある文字が並んでいた。それは、自分自身の手によって書かれたものだ。日々の思い、葛藤、喜び、そして苦しみが綴られている。

「そうだった……私は……」

記憶が徐々に蘇ってくる。自分が長い間、心の悩みを抱えていたこと。孤独や自己否定の感情に押しつぶされそうになり、現実と幻想の境界が曖昧になっていたこと。そして、専門家の助けを借りて治療を受けていたことも。

「すべては、私の心の中での戦いだったんだ」

彼女は深く息をつき、窓の外を見つめた。澄んだ青空が広がり、遠くには街の風景が広がっている。

「もう逃げない。自分自身と向き合って、生きていこう」

そう心に決めると、胸の奥に小さな光が灯ったように感じた。不安や戸惑いはまだ残っている。しかし、それでも前に進む力が自分の中にあることを信じたい。

真琴はベッドから降り、ゆっくりと部屋を歩いた。机の上には描きかけの絵が置かれている。キャンバスには、二人の少女が手を取り合って微笑んでいる姿が描かれていた。

「私と、もう一人の私……」

彼女はその絵にそっと手を触れた。異世界で出会ったもう一人の自分。それは、自分自身の心が生み出した存在だったのだ。

「ありがとう。あなたがいてくれたから、私は自分を見つめ直すことができた」

静かに呟くと、心の中で何かが解き放たれるのを感じた。
そのとき、部屋のドアがノックされた。

「真琴、起きているの?」

母親の声が聞こえる。彼女は少し驚きながらも、ドアを開けた。

「おはよう、お母さん」

母親はほっとしたように微笑んだ。

「おはよう。朝ごはんができたわ。一緒に食べましょう」

「うん、今行くね」

久しぶりに交わす穏やかな会話。真琴はその温かさに胸が満たされるのを感じた。

キッチンに向かうと、テーブルには美味しそうな朝食が並んでいる。トーストの香ばしい匂いと、温かいスープの湯気が心を和ませる。

「いただきます」

二人は静かに食事を始めた。母親は優しい目で真琴を見つめている。

「体調はどう?無理しないでね」

「うん、大丈夫。ありがとう、お母さん」

彼女は微笑んで答えた。その笑顔は、これまでの彼女とは少し違っていた。

「何かあったら、いつでも話してね」

「うん、実は……」

真琴は少し躊躇したが、意を決して言葉を続けた。

「私、自分のことをもっと知りたいの。これまで目を背けてきた自分自身と、ちゃんと向き合っていきたい」

母親は静かに頷いた。

「そうね。それはとても大切なことだわ。私もできる限りのサポートをするから、一緒に頑張りましょう」

その言葉に、真琴は胸が熱くなるのを感じた。

「ありがとう、お母さん」
食事を終え、彼女は学校に行く準備を始めた。制服に袖を通し、鏡の前で身だしなみを整える。

「今日からが新しいスタートだ」

心の中でそう宣言すると、不思議と力が湧いてくる。

家を出ると、爽やかな風が彼女を迎えた。空は高く澄み渡り、太陽の光が眩しい。

通学路を歩きながら、これまでとは違う景色が目に映る。道端の花や、すれ違う人々の笑顔。すべてが新鮮に感じられた。

学校に到着すると、クラスメートたちが彼女に声をかけてくれる。

「真琴、おはよう!」

「久しぶりだね、一緒に行こう」

彼女は少し戸惑いながらも、笑顔で応えた。

「おはよう。こちらこそ、よろしくね」

美術室に向かうと、懐かしい香りが彼女を包み込んだ。キャンバスや絵の具の匂いが、心を落ち着かせてくれる。

「また、ここで絵を描けるんだ」

彼女は席に座り、新しいキャンバスを取り出した。何を描くかはまだ決めていない。しかし、心の中にはたくさんの思いが溢れている。

「自分の心を、そのまま描いてみよう」

筆を取り、最初の一筆をキャンバスに落とす。その瞬間、これから始まる新しい日々への期待が胸に広がった。

「これからは、自分自身を大切にして生きていこう」

真琴は静かに微笑んだ。目覚めた朝は、新たな始まりを告げている。彼女の物語は、ここから再び動き出すのだ。

新たな一歩

春の柔らかな陽射しが街全体を包み込んでいた。桜の花びらが風に乗って舞い散り、新たな季節の訪れを告げている。真琴は駅のホームに立ち、新しい制服の裾をそっと整えた。

「今日から新しい学校か」

小さな声で自分に言い聞かせる。退院してから数週間、彼女は新たな環境に身を置く準備を進めてきた。不安と期待が入り混じった心境だったが、今は前を向いて歩き出す覚悟ができている。

電車がホームに滑り込み、ドアが開く。真琴は一歩踏み出し、車内に乗り込んだ。窓際の席に座り、流れていく景色を眺める。新緑が芽吹く木々や、楽しそうに話す学生たちの姿が目に映る。

「私も、あの中に入っていけるのかな」

ふと不安がよぎるが、ポケットの中の小さな石を握りしめる。それは退院の日に担当のカウンセラーから渡されたものだった。

「この石は、あなたの心の強さを象徴しているのよ。迷ったときはこれを思い出して」

彼女の言葉が蘇り、真琴は微笑んだ。

学校に到着すると、校門の前で深呼吸をした。新しい制服を着た生徒たちが次々と校舎に入っていく。彼女もその流れに乗り、足を踏み出した。

教室に入ると、クラスメートたちが和やかに談笑していた。真琴は席に着き、周囲の様子を伺う。すると、一人の女子生徒が近づいてきた。

「こんにちは、新入生の方?」

明るい笑顔が眩しい。真琴は少し緊張しながらも答えた。

「はい、今日からこのクラスに入ります。真琴です」

「私は彩花。よろしくね!困ったことがあったら何でも聞いてね」

その言葉に、真琴の心は暖かくなった。人とのつながりを感じることが、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。

授業が始まり、教室には静けさが戻った。真琴はノートを開き、先生の言葉を書き留める。新しい知識が頭に入ってくる感覚が心地よい。

放課後、彩花が再び声をかけてきた。

「一緒に帰らない?駅まで同じ方向なんだ」

「ありがとう、ぜひ」

二人は学校を出て、桜並木の道を歩いた。彩花は楽しそうに今日の授業の話や、好きな音楽のことを話してくれる。真琴も少しずつ自分のことを話す勇気が湧いてきた。

「実は、私も絵を描くのが好きなんだ」

「本当?今度一緒に美術部を見に行こうよ!」

新たな友情の芽生えに、真琴の心は軽やかだった。
家に帰ると、母親が玄関で迎えてくれた。

「おかえりなさい、どうだった?」

「とても楽しかったよ。新しい友達もできたの」

母親は嬉しそうに微笑んだ。

「それは良かったわ。夕食の準備ができているから、一緒に食べましょう」

食卓には真琴の好きな料理が並んでいた。温かい家庭の味が、彼女の心を満たしてくれる。

夜、自分の部屋で机に向かい、日記を開いた。今日一日の出来事を綴りながら、彼女は思った。

「これからも、少しずつ前に進んでいこう」

窓の外には、満天の星空が広がっている。遠くで輝く星たちが、彼女の新たな一歩を静かに見守ってくれているようだった。

真琴はベッドに入り、目を閉じた。明日が来るのが待ち遠しい。心の中で、小さな希望の灯が確かに燃えている。

「ありがとう、私。これからも一緒に歩んでいこう」

そう心の中で呟きながら、彼女は穏やかな眠りについた。