教会の地下室で割れた鏡を見つけて以来、二人の周囲で奇妙な現象が起こり始めた。朝目覚めると、時計の針が逆回りしていたり、昨日あったはずの家具が消えていたり。真琴ともう一人の真琴は、不安と恐怖に包まれていた。
「これって、どういうことなの?」
真琴は震える声で問いかけた。彼女たちが共有する小さな家のリビングには、薄い霧のようなものが漂っている。窓の外を見ると、町全体が霞んで見えた。
「わからない。でも、何かが壊れ始めている気がする」
もう一人の真琴は、テーブルの上に置かれた写真立てを手に取った。しかし、その写真の中の人物はぼやけていて、誰なのか判別できない。
「これ、誰の写真だったかしら」
「それは……私たちのお母さんじゃなかった?」
真琴は頭を抱えた。記憶が曖昧になっている。大切なはずの思い出が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく感覚。
「どうしよう。このままだと、私たち自身も消えてしまうかもしれない」
不安が募り、二人の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。外に出てみると、通りを歩く人々の姿がまばらになっている。顔見知りのはずの店主に声をかけても、彼は怪訝な表情を浮かべるだけだった。
「お嬢さん、どちら様でしたっけ?」
その言葉に、真琴の背筋は凍りついた。昨日まで笑顔で挨拶を交わしていた人が、自分たちのことを忘れている。
「そんな、嘘でしょ……」
もう一人の真琴も青ざめた顔で立ち尽くしている。二人は手を取り合い、急いでその場を離れた。
「一体、何が起きているの?」
「わからない。でも、私たちの存在が薄れているような気がする」
町の中心部に向かうにつれ、建物が朽ち果てていることに気づいた。壁はひび割れ、窓ガラスは割れ、道端には見たこともない草が生い茂っている。
「こんな光景、今までなかったはずなのに」
真琴は足を止め、周囲を見渡した。しかし、そこには確かな現実感が欠けていた。まるで夢の中を彷徨っているような、不確かな世界。
「私たち、もしかして現実の世界から切り離されているのかもしれない」
もう一人の真琴が呟いた。その言葉は重く、二人の心に沈んでいった。
「でも、どうすればいいの?このままだと、本当に消えてしまう」
「何か手がかりを探そう。きっと解決策があるはず」
二人は再び教会へと向かった。あの鏡が、この現象の鍵を握っているのではないかと考えたのだ。
教会に到着すると、建物自体も崩れ始めていた。石の壁は崩れ落ち、ステンドグラスは粉々に砕け散っている。
「急がなきゃ」
地下室への階段を駆け下りると、そこには以前と同じように鏡が立てかけられていた。しかし、その鏡はさらにひび割れ、今にも崩れ落ちそうだった。
「この鏡が原因なの?」
真琴は鏡に近づき、じっと見つめた。すると、鏡の中に無数の自分たちが映り込み、その表情は次第に悲しみに染まっていく。
「私たちは、存在しているの?」
その問いに、鏡の中の彼女たちは何も答えない。ただ、静かに涙を流している。
「もう、自分が何者なのかわからない」
真琴は膝から崩れ落ちた。もう一人の真琴は彼女の肩に手を置き、必死に声をかける。
「諦めないで。私たちはここにいる。それが何よりの証拠よ」
「でも、誰も私たちのことを覚えていない。世界が私たちを拒絶しているみたい」
その時、地下室全体が揺れ始めた。天井から砂や小石が降り注ぎ、暗闇が迫ってくる。
「早くここを出よう!」
二人は手を取り合い、地下室から逃げ出した。外に出ると、町全体が歪んで見える。建物はねじ曲がり、空は不自然な色に染まっている。
「もう時間がないのかもしれない」
真琴は息を切らしながら呟いた。
「でも、何か方法があるはずよ。諦めたくない」
もう一人の真琴は強い眼差しで彼女を見つめた。その瞳の中に、わずかな希望の光が宿っている。
「そうだね。一緒に最後まで頑張ろう」
二人は再び町を歩き始めた。しかし、人々の姿は完全に消え、音さえも失われていた。ただ風が耳元を通り過ぎるだけ。
「この世界が崩壊している……」
真琴は立ち止まり、空を見上げた。雲は逆巻き、星はまるで涙のように流れていく。
「でも、私たちはまだここにいる。それだけは確かよ」
もう一人の真琴はそっと彼女の手を握った。その温もりが、唯一の現実のように感じられた。
「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に良かった」
「私もよ。あなたがいるから、怖くない」
二人は互いに微笑み合った。その瞬間、周囲の風景が一瞬だけ鮮明になった気がした。
「今の、感じた?」
「うん。もしかして、私たちの心がこの世界に影響を与えているのかも」
「じゃあ、私たちがしっかりと自分を持てば、この崩壊を止められるかもしれない」
希望が胸に灯った。しかし、それはすぐに不安に押しつぶされそうになる。
「でも、どうやって?」
「自分たちの存在を、しっかりと認めること。自分を信じること」
もう一人の真琴の言葉に、真琴は深く頷いた。
「わかった。やってみる」
二人は目を閉じ、心の中で自分自身と対話を始めた。これまで避けてきた感情や記憶、全てを受け入れる。
「私はここにいる。私は私であることを認める」
その言葉を心の中で繰り返すと、周囲の風景が徐々に元の姿を取り戻していく。建物は立ち直り、空は澄み渡り、風に乗って人々の笑い声が聞こえてくる。
「成功したの?」
真琴が目を開けると、町は元の活気を取り戻していた。しかし、通りを行き交う人々は彼女たちに気づく様子もなく、ただ通り過ぎていく。
「でも、まだ私たちのことを覚えていないみたい」
「でも、大丈夫。私たちが自分を認めたことで、世界は崩壊を止めたわ」
二人は再び歩き出した。これから何が待ち受けているのかはわからない。しかし、互いの存在が確かなものであること、それだけが彼女たちの支えだった。
「これからも、一緒に進んでいこう」
「ええ、たとえ誰に忘れられても、私たちはここにいるから」
夕暮れの空に、二人の影が長く伸びていた。その影は重なり合い、一つの存在となって地面に映っている。
「崩壊したのは、私たちの不安や恐れだったのかもしれない」
真琴はそう感じた。これからは、自分自身を受け入れ、前に進んでいく勇気を持てる。
「そうね。これからは自分たちを信じていこう」
二人の心は一つになり、新たな未来への一歩を踏み出した。