第7話 失われた記憶の欠片

朝の光が窓から差し込んでいた。真琴は目を覚まし、天井を見つめた。いつもの部屋、いつものベッド。しかし、何かが違っている気がする。

彼女は起き上がり、部屋の中を見渡した。机の上には絵の道具が並んでいる。スケッチブックを開いてみると、描きかけの風景画があった。しかし、それが何を描いたものなのか、思い出せない。

「これ、いつ描いたんだろう……」

不安が胸をよぎる。真琴は自分の記憶をたどろうとした。昨日は何をしていたのか。学校で誰と話したのか。母親の顔さえも、ぼんやりとしている。
そのとき、階下からもう一人の真琴の声が聞こえた。

「おはよう、起きた?」

真琴は階段を下り、リビングに向かった。もう一人の自分がキッチンで朝食の準備をしている。

「おはよう……」

真琴は小さな声で挨拶した。しかし、彼女の表情もどこか曇っている。

「何かあったの?」

もう一人の真琴が心配そうに尋ねる。

「実は……記憶が曖昧になっているの。昨日のことや、家族のことが思い出せなくて」

その言葉に、もう一人の真琴も驚いたように目を見開いた。

「私もなの。今朝起きたら、頭がぼんやりしていて。大切な何かを忘れている気がするの」

二人はソファに座り、互いの顔を見つめ合った。不安が募る。

「一体、何が起きているのかしら」

真琴は手元のカップを握りしめた。温かい紅茶の香りも、どこか遠くに感じる。

「何か手がかりを探そう。このままだと、自分たちが誰なのかさえわからなくなってしまう」

もう一人の真琴が提案した。

「そうね。まずは、家の中を探してみましょう」

二人は家中をくまなく探し始めた。古いアルバムや、引き出しの中の手紙。しかし、どれも見覚えがないものばかりだった。

「おかしいわ。写真に写っている人たちの顔が、全く思い出せない」

真琴はアルバムをめくりながら呟いた。

「この人は……私のお母さんのはずよね?」

もう一人の真琴も写真を指差す。しかし、その顔は霞んで見える。

「どうして……」

二人は途方に暮れた。自分たちの存在が薄れていくような感覚。
そのとき、書斎の奥にある古い本棚に目が留まった。埃をかぶった古い日記帳が一冊、ひっそりと置かれている。

「これ、見たことがある気がする」

真琴はそっと日記帳を手に取り、表紙をなぞった。革のカバーには、イニシャルが刻まれている。「M.M.」

「私たちのイニシャルだわ」

二人は顔を見合わせ、日記を開いた。中には丁寧な字で日々の出来事が綴られていた。

「これは……私たちの日記?」

読み進めるうちに、少しずつ記憶の断片が蘇ってくる。学校での出来事、好きな絵のこと、そして心の中の葛藤。

「ここに、私が美術部で絵を描いていることが書かれている」

「私も同じだわ。でも、不思議ね。全てが二人のことのように感じる」

日記の最後のページには、こう書かれていた。

「自分が誰なのか、わからなくなってきた。心の中で二つの自分が存在しているような感覚。このままでは、どちらが本当の自分なのか見失ってしまう」

真琴はページをめくる手を止めた。

「二つの自分……」

もう一人の真琴も沈黙した。

「もしかして、私たちは……」

言葉にならない思いが胸に込み上げる。

「自分たちが同一人物で、心の中で分裂しているのかもしれない」
真琴は静かに言った。

「でも、どうして?」

「きっと、自分自身と向き合うことができなかったから。孤独や苦しみから逃れるために、心が二つに分かれたのかもしれない」

二人は互いの手を握り締めた。その温もりが、確かなものであることを感じる。

「でも、これからは一緒に記憶を取り戻していこう。自分自身を受け入れるために」

もう一人の真琴が微笑んだ。

「そうね。過去と向き合って、前に進むために」

二人は再び日記を読み進めた。そこには、自分たちの本当の思いが綴られていた。絵を描くことへの情熱、誰にも言えなかった秘密、そして未来への希望。

「自分のセクシュアリティに悩んでいたことも書かれている」
真琴はそっと呟いた。

「でも、それも私たちの一部。受け入れていこう」

二人は窓の外を見た。夕日が差し込み、部屋全体が柔らかな光に包まれている。

「これからは、自分自身を大切にしていきたい」
真琴は深呼吸をした。心の中の霧が少しずつ晴れていくのを感じる。

「一緒に頑張りましょう」

もう一人の真琴が優しく言った。

「うん、ありがとう」

二人は抱き合い、静かな時間が流れた。

その夜、真琴は穏やかな気持ちで眠りについた。夢の中で、彼女は一つの道を歩いていた。遠くには光が見え、その先には新たな未来が待っているようだった。

目覚めたとき、彼女は自分が一人でベッドにいることに気づいた。もう一人の真琴の姿はなかった。

「夢だったのかな……」

しかし、手元にはあの日記があった。彼女はそれを抱きしめ、静かに微笑んだ。

「これからは、自分自身と向き合っていこう」

窓の外には、新しい朝が始まっていた。