第5話 囁く声の正体

町の外れに佇む古い教会は、石造りの壁に蔦が絡まり、長い年月を感じさせる建物だった。真琴ともう一人の真琴は、静寂に包まれたその教会へと足を運んだ。木製の扉を押し開けると、冷たい空気が二人を迎え入れた。

「ここ、本当に誰もいないのね」

真琴は小さな声で呟いた。高い天井にはステンドグラスがはめ込まれ、淡い光が床に色とりどりの影を落としている。静けさの中で、自分たちの足音だけが響いた。

「不思議な場所ね。でも、なぜか心が落ち着くわ」

もう一人の真琴は、祭壇の前に進み出て、手を組んだ。彼女の横顔は穏やかで、まるで長い旅路の終着点に辿り着いたかのようだった。

二人はベンチに腰掛け、しばらくの間、何も言わずに天井を見上げていた。色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が、彼女たちの心の中の陰影を淡く照らしているように感じられた。

「ねえ、ここに来ると、まるで時間が止まったみたい」

真琴が静かに口を開くと、もう一人の彼女は微笑んで頷いた。

「そうね。過去も未来もなくて、ただ今だけが存在しているみたい」

その言葉に、真琴は深く共感した。これまで感じてきた不安や孤独が、一時的に消え去ったような気がした。

しかし、その静寂を破るように、微かな囁き声が耳元で響いた。

「真琴……真琴……」

二人は同時に顔を見合わせた。誰もいないはずの教会で、明らかに自分たちの名前を呼ぶ声が聞こえたのだ。

「今の、聞こえた?」

真琴が不安げに尋ねると、もう一人の彼女も頷いた。

「ええ、確かに。しかも、私たちの名前を」

二人は立ち上がり、声のする方へと足を進めた。音は教会の奥から聞こえてくる。薄暗い廊下を進むと、小さな扉が現れた。

「開けてみようか」

真琴が提案すると、もう一人の彼女は少し躊躇したが、やがて頷いた。扉を開けると、急な階段が地下へと続いている。冷たい空気が吹き上げてきて、二人の肌をかすめた。

「気をつけて」

互いに声を掛け合いながら、二人はゆっくりと階段を下りていった。足音が響き、心臓の鼓動が早まるのを感じる。

地下室に辿り着くと、薄明かりの中に大きな鏡が立てかけられているのが見えた。その鏡はひび割れ、ところどころ欠けていた。

「この鏡……」

真琴は手を伸ばし、鏡の表面に触れようとした。しかし、もう一人の彼女がその手をそっと止めた。

「待って。何か感じない?」

二人は鏡に映る自分たちの姿を見つめた。最初は普通の映像だったが、次第にその表情が歪んでいく。鏡の中の自分たちは、悲しげな目でこちらを見返していた。

「どうして……?」

真琴は動揺し、後ずさった。しかし、目を逸らすことができない。鏡の中の彼女たちは、口を動かして何かを伝えようとしている。

「聞こえる?」

もう一人の真琴が問いかけると、微かな囁き声が再び耳に届いた。

「真実を……見つめて……」

その言葉に、二人は息を呑んだ。心の奥底で何かが揺さぶられる感覚。

「真実って、何のことだろう」

真琴が震える声で尋ねると、もう一人の彼女は鏡に近づき、真剣な表情で映像を見つめた。

「きっと、私たちが目を背けてきたもの。それを見つめ直す時が来たのかもしれない」

「でも、怖い……」

真琴の瞳に涙が浮かぶ。これまで抱えてきた孤独や自己否定の感情が、一気に押し寄せてきた。

「大丈夫。私がいるわ。一緒に向き合おう」

もう一人の彼女は優しく微笑み、真琴の手をしっかりと握った。その温もりが、心の支えとなる。

二人は再び鏡に向き合った。深呼吸をし、心を静める。

「私たちは、自分自身を受け入れることができるのかな」

真琴が問いかけると、もう一人の彼女は力強く頷いた。

「できるわ。たとえどんな過去があっても、それも含めて私たちなのだから」

その言葉に、真琴は胸の奥が暖かくなるのを感じた。

「ありがとう。一人じゃないって、こんなに心強いものなんだね」

鏡の中の自分たちの表情が、徐々に柔らかく変わっていく。歪んでいた顔が穏やかな微笑みに戻り、囁き声も静かに消えていった。

「見て、鏡が……」

ひび割れていた鏡が、まるで時間を巻き戻すように元の形に戻っていく。傷一つない、美しい姿に。

「これは、私たちの心の象徴なのかもしれないね」

真琴が感慨深げに言うと、もう一人の彼女も同意した。

「ええ。自分を受け入れることで、心の傷も癒えていくのかも」

二人は鏡にそっと手を触れた。冷たかった表面は、今はほんのりと暖かみを帯びている。

「これで、囁く声の正体がわかった気がする」

真琴は静かに目を閉じた。あの声は、自分たち自身の心の叫びだったのだ。ずっと無視してきた感情が、形を変えて現れていた。

「これからは、自分の心の声に耳を傾けていこう」

もう一人の彼女が優しく言うと、真琴は微笑んで頷いた。

「うん、一緒に」

二人は地下室を後にし、階段を上って教会の外へと出た。空には満天の星が輝き、冷たい夜風が頬を撫でた。

「星がこんなに綺麗だったなんて」

真琴は空を見上げ、深呼吸をした。心が軽くなり、世界が鮮やかに映る。

「これからも、いろんなことがあるだろうけど、私たちなら乗り越えていけるわ」

もう一人の彼女が隣で笑顔を見せる。その笑顔が、何よりも真琴の勇気となった。

「そうだね。自分自身を受け入れて、前に進んでいこう」

二人は手をつないで歩き出した。足元の影が重なり合い、まるで一つの存在のように映る。

「ありがとう、私」

真琴は心の中で静かに呟いた。自分自身との対話を通じて、彼女は一歩前進することができたのだ。

夜空の星々が彼女たちの道を照らし、新たな旅の始まりを祝福しているようだった。