夜の静寂が、教会の廊下を包み込んでいた。ステンドグラスから漏れる月明かりが、淡い色彩を床に映し出している。真琴ともう一人の真琴は、再び地下室への階段を降りていた。足音が石の壁に反響し、心臓の鼓動とともに緊張感を高めていく。
「この鏡を修復すれば、現実の世界に戻れるのね」
真琴は地下室の中央に立つ割れた鏡を見つめながら呟いた。その鏡は、以前よりもひびが深くなり、まるで今にも崩れ落ちそうだった。
「ええ。でも、どうやって修復すればいいのかしら」
もう一人の真琴は、不安げに鏡に手を伸ばした。指先が触れると、冷たい感触が伝わってくる。
「もしかしたら、私たちの心を一つにすることで、鏡も元に戻るのかもしれない」
真琴はそう提案した。これまでの旅路で、二人は互いの存在が自分自身の内面を映し出していることに気づいていた。
「心を一つに……」
もう一人の真琴は目を閉じ、深く息を吸った。
「あなたと過ごした時間、本当に大切だったわ」
「私もよ。あなたがいてくれたから、ここまで来られた」
二人は互いに向き合い、手をしっかりと握り合った。その瞬間、暖かな光が彼女たちを包み込んだ。心の中で感じていた孤独や不安が、少しずつ溶けていく。
「ありがとう、私」
真琴は静かに囁いた。もう一人の真琴は微笑んで頷いた。
「これで、準備はできたわね」
二人は再び鏡に向き直った。すると、ひび割れていた鏡の表面が淡い光を放ち始め、ひびが徐々に消えていく。鏡は元の美しい姿を取り戻し、その中には現実の世界が映し出されていた。
「見て、扉が開いたわ」
真琴は驚きと喜びで胸がいっぱいになった。しかし、その一方で胸の奥に切なさが込み上げてくる。
「これで、あなたは元の世界に戻れるのね」
もう一人の真琴は、少し寂しげな表情で言った。
「一緒に戻りましょう。あなたも私の一部なんだから」
真琴は彼女の手を引こうとした。しかし、もう一人の真琴は静かに首を振った。
「私はここまでよ。あなたが自分自身を受け入れられた今、私の役目は終わったの」
「そんな……」
涙が真琴の頬を伝った。彼女は必死に言葉を探したが、声にならない。
「大丈夫。これからはあなた自身の力で歩んでいけるわ」
もう一人の真琴は優しく微笑んだ。その瞳には、深い愛情と慈しみが溢れていた。
「でも、あなたと別れるなんて……」
「私たちはいつでも一緒よ。あなたの心の中にいるから」
二人は最後の抱擁を交わした。その温もりを忘れないように、真琴はしっかりと彼女を抱きしめた。
「ありがとう。本当にありがとう」
「こちらこそ。あなたの幸せが、私の願いよ」
別れの時が近づいていた。真琴は涙を拭い、鏡の中の現実の世界に一歩足を踏み入れた。振り返ると、もう一人の真琴が静かに手を振っている。
「さようなら。またいつか、心の中で会いましょう」
その言葉とともに、鏡の中の彼女の姿は淡い光に包まれ、やがて消えていった。
現実の世界に戻った真琴は、自分の部屋に立っていた。窓の外には朝焼けが広がり、鳥たちのさえずりが聞こえる。全てが夢だったのかと疑問に思いながらも、胸の中には確かな変化を感じていた。
机の上には、あの古い日記が置かれている。真琴はそれを手に取り、ページをめくった。そこには、自分がこれまで抱えてきた思いが綴られていた。
「これが、私の物語……」
彼女は静かに目を閉じた。もう一人の自分との旅は、心の中での葛藤と向き合うためのものだったのだ。
「これからは、自分を受け入れて生きていこう」
真琴は新たな決意を胸に、部屋を出た。階下では、母親が朝食の準備をしている音が聞こえる。
「おはよう、真琴。今日は早起きなのね」
母親が振り返って微笑む。その笑顔を見て、真琴は胸が温かくなるのを感じた。
「おはよう、お母さん」
彼女は初めて、自分の心の内を少しでも伝えたいと思った。
「今日、話したいことがあるの」
母親は驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい表情に戻った。
「もちろん。ゆっくり話しましょう」
朝の光がキッチンに差し込み、二人を包み込む。真琴はこれから始まる新しい日々に、希望と少しの不安を抱きながらも、一歩を踏み出した。
「自分自身を受け入れること。それが、私の始まりなんだ」
心の中でそう呟きながら、彼女は微笑んだ。もう一人の真琴が見守ってくれていると信じて。