第6話 崩壊する現実

教会の地下室で割れた鏡を見つけて以来、二人の周囲で奇妙な現象が起こり始めた。朝目覚めると、時計の針が逆回りしていたり、昨日あったはずの家具が消えていたり。真琴ともう一人の真琴は、不安と恐怖に包まれていた。

「これって、どういうことなの?」

真琴は震える声で問いかけた。彼女たちが共有する小さな家のリビングには、薄い霧のようなものが漂っている。窓の外を見ると、町全体が霞んで見えた。

「わからない。でも、何かが壊れ始めている気がする」

もう一人の真琴は、テーブルの上に置かれた写真立てを手に取った。しかし、その写真の中の人物はぼやけていて、誰なのか判別できない。

「これ、誰の写真だったかしら」

「それは……私たちのお母さんじゃなかった?」

真琴は頭を抱えた。記憶が曖昧になっている。大切なはずの思い出が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく感覚。

「どうしよう。このままだと、私たち自身も消えてしまうかもしれない」

不安が募り、二人の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。外に出てみると、通りを歩く人々の姿がまばらになっている。顔見知りのはずの店主に声をかけても、彼は怪訝な表情を浮かべるだけだった。

「お嬢さん、どちら様でしたっけ?」

その言葉に、真琴の背筋は凍りついた。昨日まで笑顔で挨拶を交わしていた人が、自分たちのことを忘れている。

「そんな、嘘でしょ……」

もう一人の真琴も青ざめた顔で立ち尽くしている。二人は手を取り合い、急いでその場を離れた。

「一体、何が起きているの?」

「わからない。でも、私たちの存在が薄れているような気がする」

町の中心部に向かうにつれ、建物が朽ち果てていることに気づいた。壁はひび割れ、窓ガラスは割れ、道端には見たこともない草が生い茂っている。

「こんな光景、今までなかったはずなのに」

真琴は足を止め、周囲を見渡した。しかし、そこには確かな現実感が欠けていた。まるで夢の中を彷徨っているような、不確かな世界。

「私たち、もしかして現実の世界から切り離されているのかもしれない」
もう一人の真琴が呟いた。その言葉は重く、二人の心に沈んでいった。
「でも、どうすればいいの?このままだと、本当に消えてしまう」

「何か手がかりを探そう。きっと解決策があるはず」

二人は再び教会へと向かった。あの鏡が、この現象の鍵を握っているのではないかと考えたのだ。

教会に到着すると、建物自体も崩れ始めていた。石の壁は崩れ落ち、ステンドグラスは粉々に砕け散っている。

「急がなきゃ」

地下室への階段を駆け下りると、そこには以前と同じように鏡が立てかけられていた。しかし、その鏡はさらにひび割れ、今にも崩れ落ちそうだった。
「この鏡が原因なの?」

真琴は鏡に近づき、じっと見つめた。すると、鏡の中に無数の自分たちが映り込み、その表情は次第に悲しみに染まっていく。

「私たちは、存在しているの?」

その問いに、鏡の中の彼女たちは何も答えない。ただ、静かに涙を流している。

「もう、自分が何者なのかわからない」

真琴は膝から崩れ落ちた。もう一人の真琴は彼女の肩に手を置き、必死に声をかける。

「諦めないで。私たちはここにいる。それが何よりの証拠よ」

「でも、誰も私たちのことを覚えていない。世界が私たちを拒絶しているみたい」

その時、地下室全体が揺れ始めた。天井から砂や小石が降り注ぎ、暗闇が迫ってくる。

「早くここを出よう!」

二人は手を取り合い、地下室から逃げ出した。外に出ると、町全体が歪んで見える。建物はねじ曲がり、空は不自然な色に染まっている。

「もう時間がないのかもしれない」

真琴は息を切らしながら呟いた。

「でも、何か方法があるはずよ。諦めたくない」

もう一人の真琴は強い眼差しで彼女を見つめた。その瞳の中に、わずかな希望の光が宿っている。

「そうだね。一緒に最後まで頑張ろう」

二人は再び町を歩き始めた。しかし、人々の姿は完全に消え、音さえも失われていた。ただ風が耳元を通り過ぎるだけ。

「この世界が崩壊している……」

真琴は立ち止まり、空を見上げた。雲は逆巻き、星はまるで涙のように流れていく。

「でも、私たちはまだここにいる。それだけは確かよ」

もう一人の真琴はそっと彼女の手を握った。その温もりが、唯一の現実のように感じられた。

「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に良かった」

「私もよ。あなたがいるから、怖くない」

二人は互いに微笑み合った。その瞬間、周囲の風景が一瞬だけ鮮明になった気がした。

「今の、感じた?」

「うん。もしかして、私たちの心がこの世界に影響を与えているのかも」

「じゃあ、私たちがしっかりと自分を持てば、この崩壊を止められるかもしれない」

希望が胸に灯った。しかし、それはすぐに不安に押しつぶされそうになる。
「でも、どうやって?」

「自分たちの存在を、しっかりと認めること。自分を信じること」

もう一人の真琴の言葉に、真琴は深く頷いた。

「わかった。やってみる」

二人は目を閉じ、心の中で自分自身と対話を始めた。これまで避けてきた感情や記憶、全てを受け入れる。

「私はここにいる。私は私であることを認める」

その言葉を心の中で繰り返すと、周囲の風景が徐々に元の姿を取り戻していく。建物は立ち直り、空は澄み渡り、風に乗って人々の笑い声が聞こえてくる。

「成功したの?」

真琴が目を開けると、町は元の活気を取り戻していた。しかし、通りを行き交う人々は彼女たちに気づく様子もなく、ただ通り過ぎていく。

「でも、まだ私たちのことを覚えていないみたい」

「でも、大丈夫。私たちが自分を認めたことで、世界は崩壊を止めたわ」

二人は再び歩き出した。これから何が待ち受けているのかはわからない。しかし、互いの存在が確かなものであること、それだけが彼女たちの支えだった。

「これからも、一緒に進んでいこう」

「ええ、たとえ誰に忘れられても、私たちはここにいるから」

夕暮れの空に、二人の影が長く伸びていた。その影は重なり合い、一つの存在となって地面に映っている。

「崩壊したのは、私たちの不安や恐れだったのかもしれない」

真琴はそう感じた。これからは、自分自身を受け入れ、前に進んでいく勇気を持てる。

「そうね。これからは自分たちを信じていこう」

二人の心は一つになり、新たな未来への一歩を踏み出した。