雨の音が窓を叩くリズムを刻んでいる。放課後の美術室には、真琴だけが残っていた。キャンバスに向かい、絵筆を握る指先はわずかに震えている。彼女は絵を描くことで、自分自身の存在を確認していた。
外は薄暗く、灰色の雲が空を覆っている。真琴はふと窓の外に目をやった。その瞬間、雨のカーテンの向こうに人影が見えた気がした。驚いて目を凝らすが、そこにはただ揺れる木々と降りしきる雨だけがある。
「気のせい、よね」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやき、再びキャンバスに視線を戻す。しかし、胸の奥に小さな不安が芽生えていた。誰かに見られているような、そんな感覚。彼女は深呼吸をして、その感覚を振り払おうとした。
やがて絵の具が乾き始め、室内の空気が重くなってきたことに気づく。真琴は片付けを始め、静かに美術室を後にした。廊下を歩く足音が響く。学校にはもう誰もいないはずなのに、その音がやけに大きく感じられた。
外に出ると、雨は小降りになっていた。傘を差し、家路につく。静かな町の風景は、雨に濡れてぼんやりと霞んでいる。舗道に映る街灯の光が、水たまりで揺れていた。
「真琴」
背後から名前を呼ばれた気がして、彼女は足を止めた。振り向くと、そこには誰もいない。雨の音だけが耳に届く。心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、再び歩き始める。
「誰……?」
小さな声で問いかけてみるが、返事はない。足音が消えた。自分の足が地面に触れている感覚がなくなったような、不思議な感覚に襲われる。周囲の景色が遠のいていく。
真琴は立ち止まり、深く息を吸った。冷たい空気が肺に染み込む。
「大丈夫、大丈夫」
自分にそう言い聞かせて、再び歩き出す。だが、その不安は消えることなく、彼女の心に影を落とし続けた。
家に帰ると、母親の靴はなかった。今日も遅くなるのだろう。静まり返った家の中で、真琴は制服を脱ぎ、部屋着に着替えた。部屋の隅に置かれたイーゼルには、途中のままの絵が立てかけられている。
ベッドに腰掛け、窓の外を見つめる。雨は止んでいた。闇の中に溶け込むような町の風景。彼女は携帯電話を手に取り、連絡先の一覧を眺めた。話したい相手はいない。心の奥にぽっかりと空いた穴が、さらに広がっていくような気がした。
真琴はベッドに横たわり、瞼を閉じた。今日感じた奇妙な感覚が、頭の中で反芻される。人影、消えた足音、呼びかける声。
「私、どうしちゃったのかな……」
呟きは闇に吸い込まれ、静寂が戻る。彼女は深い眠りに落ちていった。
翌朝、目覚まし時計の音で目を覚ました。窓から差し込む光が眩しい。昨日の雨が嘘のように、空は晴れ渡っている。真琴はゆっくりと起き上がり、鏡の前に立った。
「今日も、頑張ろう」
自分に言い聞かせるように微笑んでみるが、その笑顔はどこか硬かった。制服に着替え、朝食の用意をする。母親はまだ帰っていない。
学校へ向かう道すがら、彼女は周囲の景色に目を向けた。鮮やかな色彩が広がっているはずなのに、どこか現実感がない。
「おはよう、真琴ちゃん」
突然、背後から声をかけられ、彼女は振り返った。そこにはクラスメートの佐藤彩花が立っていた。明るい笑顔が眩しい。
「あ、おはよう、彩花さん」
真琴は慌てて答える。彩花はにこやかに微笑んでいる。
「昨日、美術室に残ってたんでしょ?遅くまで大変だね」
「うん、まあね」
会話はそれ以上続かなかった。彩花は手を振って先に行ってしまう。真琴はその背中を見送りながら、自分がいかに孤立しているかを改めて感じた。
教室に入ると、周囲の喧騒が一層彼女を遠ざける。席に着き、窓の外を眺める。青い空に白い雲が浮かんでいる。
「私は、ここにいていいのかな」
心の中でそう問いかける。しかし、答えは返ってこない。
その日の放課後、真琴は再び美術室に向かった。絵を描くことでしか、自分を表現できない。キャンバスに向かい、筆を走らせる。色彩が形を成し、彼女の内面が映し出されていく。
しかし、ふと手が止まる。背後に視線を感じたのだ。振り向くと、やはり誰もいない。
「気のせいじゃない……」
真琴は立ち上がり、美術室の扉に近づいた。廊下には誰の姿もない。だが、確かに何かが彼女を見つめている。
「誰か、いるの?」
声を出してみるが、返事はない。彼女は扉を閉め、再び席に戻った。胸の鼓動が速くなる。何かが起ころうとしている。そんな予感が彼女を包んでいた。
外を見ると、再び雨が降り始めていた。灰色の雲が空を覆い、世界が薄暗く染まっていく。真琴は絵筆を置き、窓に近づいた。
「私は、何を求めているのだろう」
窓ガラスに映る自分の顔が、ぼんやりと歪んで見える。彼女はそっとガラスに手を触れた。その冷たさが心地よく感じられた。
「待っていて、きっと……」
誰にともなく呟いた言葉は、雨音にかき消された。
その夜、真琴は夢を見た。果てしない闇の中を歩いていると、遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。追いかけても追いかけても、その声には辿り着けない。足音だけが虚しく響く。
目が覚めると、部屋は静寂に包まれていた。心臓の鼓動がまだ速い。彼女はベッドから起き上がり、窓の外を見た。夜明け前の薄明かりが、空を淡く染めている。
「私は、一人じゃないのかもしれない」
根拠のない確信が胸に芽生えた。何かが変わろうとしている。そんな気がしてならなかった。
真琴は再びベッドに横たわり、瞼を閉じた。次に目を覚ましたとき、彼女の世界は少しだけ色を取り戻しているかもしれない。そう願いながら、深い眠りに落ちていった。