第2話 歪んだ鏡の中で

静かな図書館の空気は、まるで時間が止まっているかのようだった。棚に並ぶ本たちは長い眠りについているようで、その中を歩くと自分だけがこの世界に存在している錯覚に陥る。

真琴は一冊の本を手に取った。古びた革の表紙には何も書かれていない。ページをめくると、ほとんどが白紙だった。しかし、最後のページにたどり着いたとき、彼女は息をのんだ。そこには奇妙な絵が描かれていたのだ。

薄暗い森の中、月明かりに照らされた湖。その水面には何かが映り込んでいるが、よく見えない。絵のタッチは繊細でありながらも、不思議な不安感を抱かせるものだった。

「どうして、こんな本が……」

真琴は呟いた。この絵から目を離すことができない。何か強い引力に引き寄せられているような感覚に囚われていた。

「借りてみよう」

彼女は決心し、本を抱えて貸出カウンターへ向かった。図書館員はその本を見て少し驚いた様子だったが、特に何も言わずに貸出手続きを進めてくれた。

家に帰ると、母親はまだ戻っていなかった。真琴は自分の部屋に入り、本を机の上に置いた。夕食も取らずに、その絵を再び眺め始める。
「どうしてこんなに惹かれるのだろう」
絵の中の湖が、わずかに揺れているように見えた。彼女は目を凝らし、顔を近づける。すると、絵の中の風景がゆっくりと動き出したのだ。木々が揺れ、月が雲に隠れ、水面がさざ波を立てる。

「え……?」

真琴は驚いて後ずさった。しかし、視線を外すことができない。絵の中の世界が彼女を誘っている。心臓の鼓動が速くなる。

突然、強いめまいに襲われた。足元がふらつき、意識が遠のいていく。全身が吸い込まれるような感覚に包まれ、彼女は闇の中へと落ちていった。

目を覚ますと、冷たい土の感触が頬に伝わってきた。真琴はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。そこは見知らぬ森の中だった。背の高い木々が空を覆い、薄暗い光が差し込んでいる。

「ここは……どこ?」

彼女は立ち上がり、不安と混乱で頭がいっぱいだった。制服を着ている自分に気づき、さらに混乱する。さっきまで自分の部屋にいたはずなのに。

「夢、なの?」

頬をつねってみるが、痛みがある。これは現実なのか、それとも幻なのか。心の中で問いかけても、答えは出てこない。

そのとき、遠くから足音が聞こえてきた。かすかな音だが、確かにこちらに近づいてくる。真琴は息を潜め、音のする方に目を凝らした。

木々の間から、一人の少女が現れた。彼女もまた、真琴と同じ制服を着ている。顔がはっきりと見える距離まで来たとき、真琴は息を呑んだ。

「え……?」

その少女は、真琴と瓜二つだったのだ。髪型、目の色、表情までもが自分と同じ。二人はしばらくの間、言葉を失って見つめ合った。

「あなたは……誰?」

真琴が震える声で尋ねると、相手の少女は微笑んだ。

「私?私は真琴。あなたは?」

「私も、真琴……」

二人の間に静寂が流れる。風が木々を揺らし、葉擦れの音が耳に届く。

「どうしてここにいるの?」

真琴が再び問いかけると、もう一人の真琴は首をかしげた。

「わからない。でも、あなたに会える気がして、ここに来たの」

その言葉に、真琴は胸の奥がざわつくのを感じた。自分と同じ顔をした少女が、自分を待っていたというのだ。

「ねえ、一緒に来ない?」

もう一人の真琴が手を差し出す。その手は暖かそうで、どこか安心感を与えてくれるようだった。真琴は一瞬迷ったが、その手を取った。

「うん、行こう」

手をつないだ瞬間、不思議な高揚感が体中を駆け巡った。二人は森の奥へと歩き出す。足元の落ち葉がサクサクと音を立て、風が二人の髪を優しく撫でていく。

「ここはどこなの?」

「わからないけど、きっと大丈夫。私たちが一緒なら」

もう一人の真琴の言葉に、真琴は小さく頷いた。不安はまだ残っているものの、彼女と一緒にいることで心が軽くなるような気がした。

森を抜けると、小さな湖が現れた。絵の中で見た風景と同じだった。月明かりが水面を照らし、静寂が広がっている。

「綺麗……」

真琴は思わず呟いた。もう一人の真琴も微笑んでいる。

「ここは私のお気に入りの場所なの。一緒に見られて嬉しい」

二人は湖のほとりに座り、しばらくの間、何も言わずに景色を眺めていた。心の中の混乱は徐々に溶けていき、代わりに温かい何かが満ちていく。

「あなたに会えて、よかった」

真琴は静かに言った。もう一人の真琴は彼女の手を握り返す。

「私も。同じ気持ちだよ」

二人の手はしっかりとつながり、まるで鏡に映った自分自身と触れ合っているような感覚だった。

この奇妙な出会いが、これからの自分に何をもたらすのか。真琴にはまだわからなかった。しかし、心の奥底で何かが動き始めたのを感じていた。

遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。夜明けが近いのかもしれない。二人は顔を見合わせ、小さく微笑んだ。

「これから、どうしようか」

真琴の問いに、もう一人の真琴は答える。

「一緒に探しに行こう。自分たちが何者なのかを」

その言葉に、真琴は力強く頷いた。未知の世界への不安と、これから始まる旅への期待が交錯する。

二人は立ち上がり、手をつないだまま歩き出した。足元に広がる道はまだ見えないが、彼女たちは確かに前へ進んでいた。